今日は珍しくアートの話。


ふと目に留まった記事に、何となくアートを語らせたくなる何かがあったんでしょうね。


【GIZMODE: 忍耐力すごい。太陽光線だけで作品を描くアーティスト】
http://www.gizmodo.jp/2014/10/post_15770.html



まずは見てみましょう。




作品はこちら。

141024mang-osan_02[1]


どうでしょう?



・・・って、絵を見たところで「うまいね」ってくらいの印象しかないですよね。


これが、

虫眼鏡を握りしめて野外に何時間も座り続け、太陽光線を集めて分厚い木板の表面を焦がしながら絵を描くフィリピン人のアーティストJordan Mang-osanさん。
141024mang-osan_01[1]


と言われると、途端に「オーッ」と感じるわけです。



でも、別にその話を聞いて絵が変わるわけじゃありません。色も線も一切変わりません。


でも、感じ方は変わります。



以前、メディアアーティストで東京芸大の准教授でもいらっしゃる八谷和彦さんとサイエンス、エンジニアリング、デザイン、アートの違いについてお話を伺う機会があったときに、


「アート作品は、その背景にあるアーティストの文脈も
作品の一部


ということを仰り、目からウロコでした。


確かにクラシック音楽でも、作曲家のそのときの歴史的背景は、作品の理解に重要ですし、その歴史的背景があって初めて価値が生まれるところがあります。


科学的な見方からすれば、「そこにある絵という物質から得られる情報だけから価値が決まる」と考えがちですが、それは作品の一部に過ぎないというわけですね。



んー、納得。



さて、では論文のような科学的成果はどうでしょう?



完成した既成の科学(この表現はこちらから)なら
人やその背景は関係ないでしょうが、
作製段階の科学(同上)なら







そして、我々が取り組んでいるのは、
作製段階の科学なんですよね。