現代ビジネスでこんな記事がありました。


武術家の光岡英稔氏のインタビュー記事・・・と言っても、光岡氏のことは存じ上げないのですが、この記事の5ページ目に面白い指摘を見つけました。


教育したら人はすぐ弱くなります。「物事はこうでなければいけない」と教えたら、弱くなるのです。

学校をはじめほとんどの教育の内実は「こうでなければいけない」と刷り込んでいきます。もともとの才能を潰さずに教育するのは本当に難しい。 


「教育とは何?」と考えさせられる話ですよね。



 
「教えられる正しいこと」を、自分の考え方の体系にうまく組み込む前に正しいと信じてしまうことは、場合によっては「矛盾する正しいこと」が共存してしまうことになります。

実際、


「あー、詰め込んだ知識が消化できてなくて、
知識のせいで反って混乱しちゃってるな…」


という人に出会うことがあります。

そして、よく勉強してる人ほど、議論の場でそうなってしまっていることが多いように思います。


格闘家のケースで言えば、教えられる形あるいはフォームに理由があるのでしょうが、それが唯一無二ではありません。必ず良し悪しや向き不向きがあります。

既に学ばずにある種の確立した自分の形を持っている天性の格闘家の場合、そこで教わるものが本人の特性に合わないにもかかわらず、それを「正しい」と思ってしまうことで、自分の元からあるスタイルの邪魔をしてしまい、「いびつなスタイルの格闘家」になっているんでしょう。





学問の議論の場でしばしば、「正しい知識の量による優劣評価」を見ることがあります。


例えば議論における反論で、


「あなたは○○を知っているのか?」

「○○を知らずにそんな主張をしているのか?」


というようなものです。


この反論自体が常に間違っているとは言いませんが、その反論が相手の主張に対するものではない場合があります。

そういうときでも聴衆には「より知識のある人を正しいと感じる傾向」がある人が一定数います。そして、その場の議題と為される主張にうまくついていけてない場合には、特にその傾向を適用しやすくなります。


その結果として、要するに


「そこで何が議論されているか?」

ではなく、

「その議論をするために
お前は必要な知識があるのか?」


相手を排除する方法が有効に機能してしまうのです。


これが、格闘技なら知ってる技の数で優劣など決まりません。自分の体に馴染んで使える技がたった一つでも、最強になれることもあります。


観客は、そこでどんな組手が交わされているのかの本質的な部分を理解しなくても、結果として相手に与えているダメージで判断できるので、単なる技自慢に惑わされずに済むわけです。





こんなケースもあります。


例えばある議題に対して、過去に偉人が唱えた思想と同じ結論に至った「天性の人」がいるとしましょう。


そして、過去の偉人の思想には恐らくそれに続く反論があるでしょうが、相手がその場で為すべき反論は


「あなたは○○という反論が過去にされていたことを
知っているか?」

ではなく、

その○○という反論をそのまま天性の人にぶつけること


だと思います。


天性の人はその反論を知っているに越したことはありません。それによって、過去に既に為された議論の成果を利用できるからです。しかし、それを知らずとも議論はできるし、過去の偉人よりも深い議論ができる可能性だってあります。


にもかかわらずそれができないのは、


自分自身ではその反論を
使いこなせないから


ではないでしょうか。だから、「偉人に対して偉人が為した反論」として披露した方が、本質の議論を回避できることを本能的にわかってて、ついついそうしてしまうわけです。


体に馴染んでいない知識でも、知識自慢に持ち込めば一見議論は成立しますし、聴衆の中にはそれで納得する人もいるでしょう。


しかし、格闘の場ならそれが通用しないことは、既に前述の通りです。





この時期、修論や博論を書いている人も多いでしょう。


そして、書いているうちに調べて見つけた過去の引用文献が、多くなればなるほど混乱してしまうというフェーズが必ず訪れます。


自分自身の立ち位置(思想・倫理学では理論とも表現するみたいですね)がしっかりしていれば、その引用文献との立ち位置の違いを理解して読み込めるので、自分と異なる相手の主張を逆手に取って自分に有利に引用することもできるのですが、それができないと


「過去の偉人と自分の論理展開が異なっている」


となってしまうので、そこで フリーズすることになります。


私の場合に修論や博論の発表を聞いていて感じるのは、 ディーテイルの論理展開ではなく、まず最初に


立ち位置が明瞭であること


が主張する上で大事であり、 それに続いて


立ち位置に個性や斬新さがあること


が面白味に繋がるということです。


全ての人が天性の形を最初から確立しているわけではないので、十分に形がないままに過去を学ぶことは仕方ありませんし、それに伴って混乱は必ず生じます。


しかし、そこで


「正しいことを教科書から探す」

のではなく、

「自分の好みは何だろう?」
「矛盾する過去の知識と自分の好みの違いは何だろう?」 


ゆっくりじっくり考えてみてはいかがでしょうか。



本当は、日常の質疑や議論の中でそういうものが醸成されるのがいいと思うのですが、どうしても先生や年長者の主張は「正しいもの」になりやすいので、自分のスタイルを確立するのに好ましい場でない場合があったりするんですよね・・・(^^;;;。



ということで、冒頭に戻って


「教育とは何?」


と考えさせられた次第なのでした。 




別に修論・博論のような説教臭い話を書こうと思ってたわけじゃないのに、
こんな風になってしまったのは老化現象です。