本当は3月のGDCとかCeBITとかを報告すべきなんでしょうが、すっかりタイミングを逃してこのふわっとしたエントリになることをお詫びいたします・・・m(_ _)m


最近、たまたまラトゥールの「科学がつくられるとき」を思い起こす機会がたびたびありました。


科学が作られているとき―人類学的考察
ブルーノ ラトゥール
産業図書
1999-03

 
この本、恐ろしく読みにくいのですが、噂によると原著だともっと読みづらいとかで、まだ母国語訳がある日本という国に生まれたことに感謝。


本の内容はAmazonに譲りますが、私の視点では例えば(古い)アカデミアとベンチャー のかい離や、答えのある学校教育と答えのない実社会のかい離なんかを理解するのに役立つと思ってます。

ベースになるのは、いわゆる科学主義(科学は絶対的に正しいという考え方)に疑いを持つという視点で、それをまたエスノグラフィックに展開するので胡散臭さ全開なのですが、それこそが正に


「過去にないもの=未来を創る覚悟」


なんだろうな、とふと思ったというお話でした。


これから未来のために勉強しようとする人は、確かに過去の確立した学問を学ぶことは、「体系的であることの重要性」を学ぶのに必要なことです。


しかしながら、 多くの場合(科学的)パラダイムシフトは、そういう体系を信じない、あるいは壊すところから始まります。つまり、新しいものに挑戦することと古いものを(過度に)正しいと信じることは本質的に相反する部分があります。


無論、古い体系の延長線上に新しいものはあります。しかしながら、そこに市場価値に限らずニーズ(アカデミアでいうなら関心や好奇心)があるなら、古い体系を修めた頭のいい誰かが必ず既にそれをやってるでしょうし、実際アカデミアにおける論文数の分野の偏りこそが、市場だけでなくアカデミアにおいてもレッドオーシャン化が容易に生じることを示しています。


一方、俗にフューチャリストと呼ばれるミチオ・カクやレイ・カーツワイルのような、自身の専門性の範疇から外れて大胆に未来を語る人たちは、ある種の胡散臭さが伴いますが、同時にそこで語られる確証のない未来像の中には人を惹きつけるものがありますよね。


それを「SF=Fiction」と言えば「娯楽」として受け入れられもするのでしょうが、「(確立された)科学から予測される未来」と称するにはあまりに不確定性が多く、特に古いアカデミアには受け入れがたいものであることが多いと思います。


でも、「不確定性の多い未来を創る覚悟」というのは結局そういうことだと思うんですよ。


今為し得ない未来を創るために学問に取り組んでいる皆様におかれましては、過去から学ぶべきことと未来を創ることのバランスについて考えてみてはいかがでしょうか?